アヴィニョン教皇庁 Palais des papes d'Avignon

この記事では、フランス南東部に位置する都市アヴィニョンにあるアヴィニョン教皇庁を紹介します。アヴィニョン教皇庁やアヴィニョンという地名は、南フランス好きか歴史好きの方以外にはなじみがないかもしれません。筆者も「Le Pont du Gardへ行ってみた」で紹介した巨大な橋を見に行くの便利な最寄りの大きな街ということで初めて知った街です。キリスト教のカトリック・ローマ教皇の座がローマからアヴィニョンに移されていた時期(1309年 - 1377年)があったことも知らず、写真のような建造物があることも城塞都市であることも知りませんでした。そのため、2019年にアヴィニョンを訪れたときは、リヨンから、Le Pont du Gardへ行くための通過地点という認識しか無かったため、わずかな時間の滞在でした。そのときの美しい町並みや、荘厳な教皇庁を思い出し、今回2026年4月下旬の南フランス旅行では、このアヴィニョンを重要な滞在拠点として訪れることにしたのです。

欧州の教会のイメージと違う
概観や壁の写真を見て、「教会っぽくないな、まるで要塞のようだ。」そう感じる方もいるでしょう。実際街を囲む分厚い外壁や、狭い銃眼(矢を放つ隙間)を見ると、軍事施設にしか見えませんでした。なぜ「宗教施設」がこれほど武装せねばならなかったのでしょうか。教皇たちがこれほど病的なまでに防衛能力を高めた理由は2つあります。

1.フランス王への猜疑心: いつフランス軍が自分たちを拘束しにくるか分からないという、強い警戒心がありました。
2.無法地帯化したヨーロッパ: 当時は百年戦争の真っ只中で、軍隊からあぶれた「傭兵団(残虐な強盗集団)」がフランス中を荒らし回っていました。アヴィニョンにある教皇庁には、ヨーロッパ全土から集まった金銀財宝や、重要な機密書類が保管されているため、常に彼らの絶好のターゲットだったのです。

神の愛を説き、ヨーロッパの精神の頂点に立つはずの教皇が、王や暴徒を恐れるあまり、「ヨーロッパで最も堅固で、最も人を寄せ付けない、冷徹な石の要塞」に引きこもって政務を行っていた――。この建物が醸し出す独特の威圧感と軍事的な雰囲気は、まさに「信仰」が「剥き出しの権力闘争」へと変貌してしまった、中世末期の不穏な空気をそのまま形にしたものだったと言えます。

教皇庁の移動
さて、冒頭にあげた「カトリック・ローマ教皇の座がローマからアヴィニョンに移されていた時期(1309年 - 1377年)」が気になりませんか。
フランス王フィリップ4世は、イギリスとの戦争でお金が足りなくなっていました。そこで王は、それまで税金がかからなかった国内の教会や聖職者に勝手に課税しようとし、これに大激怒したのが、ローマ教皇ボニファティウス8世です。「教皇の許可なく教会に税金をかけるな!」と猛抗議し、両者の対立が始まりました。その後、フィリップ4世は教皇の権威失墜や教会・聖職者への圧力を強めました。対立は続き、教皇ボニファティウス8世の死後に選任されたベネディクトゥス11世がわずか8ヶ月で無くなった後、1年の空位を経て選任された教皇クレメンス5世は、田舎に過ぎなかったアヴィニョンへ教皇庁を移すことにしました。ということは、当時は、王の方が教皇より政治的力が強かったと想像できます。
1309年、フランス王(皇帝ではなく当時のフランス国王フィリップ4世です)の圧力によってローマを追われた最初の教皇クレメンス5世がアヴィニョンにやってきた時、まだ教皇庁の建物はありませんでした。
当時、アヴィニョンはフランス王の領土ではなく、教皇に好意的な領主の土地(神聖ローマ帝国領の端:当時イタリアやフランスに教皇領と呼ばれる土地があった。)だったため、避難先として選ばれたのです。最初の2代の教皇たちは、地元の修道院や既存の小規模な司教館を借りて、いわば「居候」のような形で生活していました。この時点では、彼らはまだ「いずれローマに帰る臨時の避難」だと考えていたからです。しかし、ローマの政情不安は長引き、「もうアヴィニョンに腰を据えて、ここに強固な本拠地を造るしかない」と腹をくくったのが、3代目と4代目の教皇たちでした。彼らによって、現在私たちが目にする巨大な教皇庁が建設されました。

教皇は再び力を取り戻せたのか
アヴィニョン捕囚の後、教皇の権力がヨーロッパの王たちを再び凌駕することは二度とありませんでした。むしろ、アヴィニョン捕囚は「教皇権の失墜」の始まりに過ぎず、その後は坂道を転がり落ちるように衰退へと向かっていきます。かつて「カノッサの屈辱」で皇帝を裸足で謝罪させたような絶対的な力は、完全に過去のものとなってしまったのです。せっかく、教皇庁がローマに戻っても国を支配するような権力を再び持つことはありませんでした。従ってこのアヴィニョン捕囚は大きな歴史の転換点といえます。再び権力の座に返り咲くことができなかった理由は大きく3つあるようです。
1.教会がバラバラになった。(ローマにも教皇、アヴィニョンにも教皇が存在し、ヨーロッパの王達は自分たちに都合の良い教皇を支持。教会は政治の具として権威失墜した。)
2.ヨーロッパの王が力をつけた。(中央集権の官僚組織、騎士に頼らない自前の常備軍による(=財務・軍事力による)統治基盤の強化)
3.マルティン・ルターらによる宗教改革
更に、イングランド国王ヘンリー8世のように、「離婚を認めない教皇とは縁を切る。これからは国王である私が国内の教会のトップ(イギリス国教会)になる」と宣言する王まで現れました。
十字軍の失敗もあります。このように教皇や教会の権威を傷つける材料をたくさん起きてしまったことにより、ヨーロッパの権力・統治は大きな転換期を迎えたのです。

その後の教皇庁:政治の主役から「文化・信仰の象徴」へ
その後、教皇たちは世俗の権力闘争に勝てないことを悟り、別の方向へエネルギーを注ぐようになります。それがいわゆるルネサンスの保護です。ミケランジェロやラファエロといった芸術家をローマに招き、壮麗なヴァチカン宮殿やサン・ピエトロ大聖堂を築き上げることで、精神的な「美と聖性」の権威を再構築しようとしました。それは大成功といえますね。

中世のヨーロッパでは、なぜ、教会が街や民衆を支配できたのか
唐突ですが、教皇が王より強かった時代を考えてみましょう。そもそも、なぜ、教会が街や民衆を支配できたのでしょうか。王や他の有力な領主との力関係はどうなっていたのでしょうか。なぜ、武力で劣る教会や教皇が長期に渡って権力を維持拡大できたのでしょうか。
中世ヨーロッパにおいて、武力で劣るはずのローマ教会や教皇が、国王や有力領主を抑えて長期にわたり絶大な権力を維持できたのは、単なる「宗教的な信仰心」だけでなく、「精神・情報・経済・政治」のすべてを網羅した極めて合理的な統治システムがありました。

当時の民衆にとって、教会は単に「神に祈る場所」ではなく、生老病死のすべてを管理する唯一の生活インフラでした。
1.魂の救済の独占(精神的支配):
中世の人々は本気で「地獄の恐怖」を恐れていました。天国へ行くための儀式(洗礼、結婚、葬儀など)を執り行う権限は教会が独占していたため、教会に逆らうことは「死後の永遠の救済を失うこと」を意味しました。
2.情報と教育の独占:
知識層が極めて少なかった時代、公用語であるラテン語を読み書きし、聖書や過去の記録(法や歴史)を扱えるのは聖職者だけでした。つまり、教会は現代でいう政府の官僚組織、大学、メディア、そして戸籍管理機関の役割をすべて一手に引き受けていたのです。
3.強固な経済基盤:
民衆から収穫の10分の1を徴収する「十分の一税」や、広大な教会領からの収入により、教会はヨーロッパ最大の経済力を誇っていました。

王や有力領主との力関係はどうだったのか?
中世の政治体制は、現代のような中央集権国家ではなく、「封建制(ほうけんせい)」と呼ばれる分散型の社会でした。国王といえども、自分の直轄地以外は強力な諸侯(領主)たちに実権を握られており、王権は非常に不安定でした。この不安定なピラミッド構造の中で、王や領主は自分の支配を正当化するために、教会の権威を必要としました。「私が王なのは、神に認められた存在だからだ(王権神授説の原型)」という大義名分を得るために、教皇から戴冠(たいかん)してもらう必要があったのです。これにより、「世俗の権力(軍事力・土地)を持つ王」と、「精神の権威(正当性)を持つ教皇」の二元支配体制が生まれました。両者は時に協力し、時に激しく対立するライバル関係にありました。強力な騎士団を持つ王たちに対し、直接的な軍隊をほとんど持たない教皇が優位に立ち続けられたのには、主に3つの強力な武器があったからです。
1.「破門(はもん)」という最強の政治兵器
教皇が持つ最大の武器は、特定の人間をキリスト教社会から追放する「破門」でした。
王が破門されると、その王に対する家臣(諸侯や騎士)の忠誠義務は無効化されます。王に不満を持つライバル諸侯たちは「大義名分」を得て一斉に反旗を翻すため、王は政治的に孤立し、王座を追われる危機に直面しました。
カノッサの屈辱(1077年)
聖職者を任命する権限(叙任権)を巡って教皇グレゴリウス7世と対立した神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、教皇から破門され、諸侯の反乱を恐れて雪の中で3日3晩、裸足で許しを請う羽目になりました。2. 国境なき「超国家ネットワーク」
当時のヨーロッパの国々は細かく分裂していましたが、ローマ教会だけはヨーロッパ全土に網の目のように張り巡らされた唯一の組織でした。教皇の命令一つで、各国の教会や修道院を通じて同時に世論を動かすことができたため、個々の国王が単独で太刀打ちするのは困難でした。
3.諸侯同士の「勢力均衡(バランス・オブ・パワー)」の利用
教皇は、一人の強力な王がヨーロッパを統一することを嫌いました。そのため、ある王が強くなると、ライバルの王や反乱分子の諸侯を裏から支援し、武力勢力同士を戦わせて共倒れにさせる、あるいは勢力を均衡させるという高度な外交戦略(政治的キャスティングボート)を巧みに操っていました。

「アヴィニョン捕囚」:太陽が陰った時代
再び、「アヴィニョン捕囚」時代に話を戻します。これ以降、約70年間にわたってアヴィニョンにフランス人の教皇が立ち並び、教会はフランス王の強い影響下に置かれることになりました。「教皇は太陽」とまで言われた絶対的な権威が失墜し、世俗の王のパワーが教会を上回り始めた決定的な瞬間が、あの街の歴史には刻まれています。


アヴィニョンへの行き方
パリのCDG(シャルルドゴール国際空港)または、パリのリヨン駅(Gare de Lyon)からTGVで行く(マルセイユ行き)のが一般的でしょう。4時間近くかかります。途中、広大な畑を目にすることができます。せっかくなのでひたすら窓から外を眺めていました。しかし、行けども行けども、ずーっと平らな緑、黄色、茶色の畑が果てしなく続くため、フランスは平地しか存在しないのかと感じます。

TGVで、Avignon TGV という駅に着いた後、ローカルの電車に乗り換えます。5分でAvignon-centre 駅に着きます。(本数が少ないので、急ぎならタクシーが良いです。)
Avignon-centre 駅の北側にアヴィニョンの城塞都市が広がります。中は交通規制があるため車での出入りは不便です。

Avignon centre 駅前から、北側(城塞の入り口を見たところ)


教皇庁の北側(歩いていけます)にはローヌ側が流れ、サン・ベネゼ橋(アヴィニョン橋)があります。

2019年訪問時の写真 サン・ベネゼ橋(Pont Saint-Bénézet) 「アヴィニョンの橋の上で」という歌で有名: 教皇庁とこの橋の入場料:17ユーロ@一人

セミ
なぜ、アヴィニョンのお土産屋さんでは、セミの置物が沢山あるのかと不思議に思っていたら、パリではセミはほとんど生息していないそうで、鳴き声を聞けるのは南フランスに限られるとのことでした。プロヴァンス地方では、家を守り幸運を運ぶお守りとして、カラフルな陶器や金属で作られたセミの壁飾りや雑貨がお土産として売られています。親指くらいの大きさから、500mlのペットボトルよりも大きなサイズの置物まで。嵩張るので親指くらいの大きさのセミを3つ買って帰りました。

南仏旅行するには、ニースと共に便利な拠点であるアヴィニョン。3回目の訪問はあるだろうか。